高校の通学時に聞いていた
青少年の抑えきれない衝動、それは有り余る性欲を解消できないものがしさから来る。それがスポーツや音楽に強くぶつけられる。
人の行動原理は意識より、むしろ無意識から決定されるという。抑えきれない衝動、なぜ自分がそんなことをやっているのか、合理的説明が出来ない。暴飲暴食や不倫など、およそ健康的とは言い難いことを人はする。その汚れた動物こそが人間であり、大人はそれを知識として納得することができる。しかしまだ成熟してない少年少女はそれを受け入れることが出来ないのだ。そしてそれらこそが犯罪へと走らせる。私はこの作品を読んで社会を震撼させる犯罪者の心に触れたような気がするのだ。
山に登るのはとりつかれるからだ。何もなければもしかしたら雪山に登っていてそのまま死んでいたかも知れない。
私はどちらかというとそっち側の人間だ。バイクでスピードを上げたり、戦場に行ったり、雪山に登ったりしているほうが「生きている」と感じる。守られた世界で食べることも寝ることも保証されて、明日何食べようか?と考えられるほど暇な日常で、生きてることを実感できることは難しい。何かを成し遂げたいわけではない。とにかく暇なのだ。やってもいいしやらなくてもいいことだらけだ。映画を見ることも仕事も本を読むことすら、必ずやらなければならないことでもない。餓死寸前で明日食うために何をしたらいいかを考える人間が、老後どうしようかなんてはっそうは浮かばないだろう。
なんにせよ贅沢な悩みである。まるで全てを手に入れた王様のような気分である。まわりからはまるでそうは見えなくても。
見ていて嫌な気分になるが、またそれもエンターテイメントということ。男の性がとことん汚く描かれてる。
自分の性を満たすため、都合の良いダッチワイフ、しかし世の中にはそんなダッチワイフ化させようとする男も少なからずいる。そんな男の我儘や自己愛が描かれて嫌な気分になる。人を愛するということと、自分をどこまでも愛すると言うことは違う。そして人と生活をするということは(少なからず)自分の都合の良いことばかりではないのだ。面倒臭いこともあるし、妥協しなければならないこともある。射精して、あとは帰ってもらうというわけにはいかないのだ。ダッチワイフと一緒に暮らすということはどこまでも自分の世界を作ると言うことだ。髪、口、オーデコロン、相手の人格を無視した虚像を生み出す。結婚が当たり前でなくなった昨今、これからそういうにんげんが増加するはずだ。その先に一体何があるのだろう?ある意味で共感が少なくなる人が増えるだろう。そして他人にあまり期待しなくなるのかも知れない。衝突を避けた優しい世界だ。そんな気がする。